―――  準備完了




 どうすればいいんだろう… 
 情けなくて涙が出てくる。 

 迷ってしまっ…た。 

 修学旅行二日目の夜。 
 ホテルのお土産屋さんを眺めながら考え事してる間に、リタやマリーナとはぐれちゃって。 
 一人で部屋に戻る…はずだったんだけど。 
 エレベーターに乗り、降りて。 
 ……やけに、静か。 
 階数は合ってるはずなんだけど。でもうちの生徒どころか人ひとり通らなくて。 
 睫毛が、震える。 
 清潔そうな壁。毛の短いじゅうたん。静かな廊下。――無個性な場所。 
 どうしよう。 
 まさかホテル内で迷子になるとは思ってなかったから、携帯電話も持ってないし。 
 手に持ってるのはさっき買ったちっちゃな紙パックのぶどうジュース。 
 あとポッケに…お財布と。以前につっこんだままだったらしいヘアピン。 
 ……使えない。 
 まぁ、どっちもポッケに入れとくとして。 

 これは、きっと。 
 お土産屋さんまで戻るのが一番良いかな。 
 さて―― 

 ……………エレベーターは、どっち? 

 いや、う、ウッソでしょう!? 
 ついさっき! 降りたの、ついさっきなのに! 
 すぐ近くにエレベーターがあるはずで…… 
 あっれえぇぇ〜〜?? 
 頭がぐるんぐるんして、顔が、ふにゃあ、と情けなく崩れてくる。 
 泣きそう。 
 ちょうど、その時だった。 



「こんなところで何フラフラしてやがんだよ」 



 かすれたような、けれど強い声。 
「……トラップ?!」 
 はじかれたように顔をふり向けると。 
 鋭い視線でわたしを睨みつけている彼の姿が、あった。 

 どうして、ここに。 

 そう尋ねようとして口をひらいた瞬間、ふと、トラップの肩がわずかに上下しているのに気がついた。 
 部活中でもないのに、彼の息が乱れているのはひどく珍しくて。 
 ああ、うっすらと汗までかいている。 

 トラップは。 
 どうして、ここに? 

 もう一度問いかけようとしたけれど、先にトラップがふっと息を吐いて、呆れ果てたような声を出した。 
 実際、呆れてるんだろう。 
「まさか迷ったわけじゃねえよなあ? ホテルの中で」 
 う、うぐぐ。 
 トラップはなおも言葉を募らせる。 
「旅行係の誰かがクラス全員に言ってたもんなあ? 『人に迷惑をかけないように』って」 
 うぐ、ぐ、ぐ。 
「だぁーら、まさか、迷うはずねぇーよなあ? あれ、旅行係って誰でしたっけ」 
 ………わたしです。 
 悪かったですよ、ゴメンナサイねーだ! ってか、あんたも同じ係でしょうに! 
 あー、くやしい。なによっ。 
 反発してやりたくなって、ぼそっと呟いてみる。 

「だ、誰のせいで迷ったと思ってるのよっ…」 
「あ? なんだと?」 
「……………」 

 ふんだ。 

「それよりここ、どこなの?」 
「ホテルの中」 
「そぉーじゃなくって! ホテルのどこ?」 
「少なくともおれらが泊まる所じゃねえな」 
 だから。そんなことわかってるんだって! 
 わたしのイライラをよそに、トラップは辺りを見まわして疑問を口にした。 
「一般の客が泊まるところだろうが…にしちゃあ、静かじゃねえ?」 
 その言葉にわたしも首をめぐらせる。…そういえば。 
「お客さんもホテルの人も、さっきから誰もここを通らなかったわ」 
「ふうん。じゃ、ここらは今使われてねえのかもな」 
「空き部屋ってこと?」 
「さあ、知らねえけど。まだ満室になるシーズンじゃねえことだけは確かだな」 
 なるほど、なるほど。それでこんなに人の気配がないのね。たぶん。 
 静かすぎる空気は知らない間にわたしの心細さをあおっていたんだろう。ほっとして胸をなでおろす。 

 ――安心できた本当の理由は、トラップがわたしを見つけてくれたからなんだろうけど。 

 そうだよね。 
 トラップがどうしてここに来たにせよ、彼のおかげで助かったのは確かで。 
 だったらちゃんとお礼しなくちゃ。 
 改めてトラップを見つめる。 

 ……って、アラ? いない。 



 カチカチ、ガチャ。 



 へ?! 

 気づいた時にはトラップが、ひとつの部屋の入口のそばで何かやってて。 
 軽い金属音が鳴って。 

「ほい、開いた」 

 彼は入口の戸をひらいてしまった。真っ暗な部屋の中がぼんやり見える。 
「鍵…」 
 空き部屋であってもホテル側がかけておいたであろう、鍵は。 
「だから開けたって」 
「なにで!?」 
「おめぇーのヘアピンで」 
 返すわ、とピンをはじいてよこされ、わたしは慌ててキャッチした。 
 わー。ここのホテルのセキュリティやばいんじゃないのかな…… 
 って、いつ盗られたの!? わたしのヘアピン! 
 いやそれより、なぜこいつはそんな鍵開け術を持ってるの!?? 
 いやいや、それより、なぜ…… 

「入れよ」 

 トラップは親指でくいと部屋の奥を示した。 



 なぜ。 
 こんな、展開に。








 ずいぶん抵抗した…つもり、だけど。 
 なんだかんだで部屋に押しこまれてしまった。 
 ホテルの人や先生にばれるとまずいから、電気は消したまま。 

 いやでもこれ、まずいよね…? 
 ちょっとずつ消灯時間も迫ってる。 
 入っちゃいけない場所に入ってる。 
 それも――ふたり、で。 

 修学旅行の夜に。 

 いや、待って、落ち着こう。変に意識するとこの人に笑われる。 
 そうよ、トラップはべつにこんなの、なんとも思ってないかもしれないんだから。 
 トラップは―― 

 …静かだ。 

 あれほど強引にわたしをここへ入らせたのに、今は唇を結んで。何も語らない。 
 開けたカーテン。 
 わずかな、かすかな明かりが窓からさしこみ、そのそばに佇む彼のシルエットを浮かびあがらせている。 
 真っ暗な景色を見ているらしい、横顔。 
 ううん。何も見ていないのかも。 
 よくわからない。 

 静か。 

 息がつまる。 
 息ができない。 
 そういえば二人っきりになるのもあの時以来なわけで…… 

 ダメだ。顔が熱い。 

 違うこと考えよう、そうしよう。 

 あ、そうだ。 
「トラップ」 
 わたしは、ちょっと無理して作った明るい声と、紙パックのジュースをさしだした。 
「喉、かわかない?」 
「………………」 
 トラップがこちらを向いた。 
 完全に窓を背にした彼の表情が、闇に吸いこまれる。かすかに輪郭がわかるだけになって。 
 ――なぜだろう。 
 かすかに逃げ腰になっている自分がいる。 

 わたしは何をおそれているの? 

 でも、やがて。 
「くれ」 
 その声と一緒に、空気がゆるんだ。 
 なんだ…べつに、いつものトラップよね。 
「はい、どーぞ」 
「ん」 
 ジュースを持った手を伸ばす。 
 トラップがそばへやってくる。 

 彼の影が、わたしに覆いかぶさった。 

 そして。 

 かすかに触れる彼の指先。 
 彼のぬくもり。 
 ジュースの重みは手の上から取り払われて。 

 そして、 








「……覚悟、できたか」 








 あの日を思い出させる、彼の低い声。 
 それが、耳のすぐそばにあって。どうしようもなくくすぐったい。 



 彼のぬくもりは、いつの間にか、わたしの全部を覆っていた。








 ずっと考えてたの。 
 あの日の、あの時のことを。 
 旅行の楽しい思い出も残らないくらい。 
 そばにいる大好きな友達のことも忘れるくらい。 
 だから、あんなふうに迷ってしまったのだって、この人のせいなんだから。 
 すごくたくさん、考えたんだから。 

 あの日の沈黙の意味。 
 あの時の言葉の意味。 

 考えて、考えて。でも――― 
 わたしは、まだ。 






「できてない、です」 
 上ずった声で正直に言う。 
「じゃあ今しろ」 
 そっ、そんな無茶な! 

 カクゴ。 
 それ、何? 

 考えようとしても頭は真っ白で、辺りは真っ暗で、トラップの息が首すじにかかって熱くて、ううん体全部熱くて―― 
 ようするに何も考えられない。 
 とりあえず、今、はっきりしてるのは… 

 トラップに抱きしめられてる。わたし。 

「………トラップ?」 
「なんだよ」 
「これ…本当に本当?」 

 なんだか現実感がなくて。嘘のようで。 
 思わずもらした言葉は、彼をガッカリさせたようだった。 
「……んっとに、おめぇーは」 
 少し体を離される。 
 正面から顔を向けあった。暗いけど、さすがにこれだけ近いと表情もわかる。 
 彼は、困ったように笑った。 
「鈍感」 
「なっ…」 
 反論しようとして開いた唇を、トラップが親指で触れて、閉じた。 



「覚悟が必要なのは、おれだよな」 



 ドクン。 

 そう言うトラップの声は。知らない人みたいに、優しい声で。 
 わたしの頬に触れる手も。信じられないくらい、優しい。 

「しょーがねえから、はっきりさせてやるよ」 

 ドクン。 

 やだ。 
 ききたくない。 
 はっきりなんて。 
 でも。 
 ほんとに? 
 まさか。 
 ひょっとして。 
 もしかして。 
 だとしたら。 
 ききたい。 
 でも…! 

 いろんな気持ちが頭のなかをぐるぐる巡って、巡って。 
 結局わたしがしたのは、トラップの唇が動くのを見ていることだけだった。 

 ドクン、ドクン。 
 速くなる。 
 ドキ、ドキ、ドキ、ドキ、ドキ……… 



「おれは。おまえのこと――」 



















 プルルルルルルル! 










 甲高い電子音が突然鳴りだし、わたしたちは二人してずっこけた。 
 で、電話? いったいどこから… 
 と思ったらトラップが携帯電話を取り出した。彼が「もしもし」を言う前に、 
『ちょっとトラップ! パステルは見つけたの、見つけてないの!? 連絡くらいしなさいよ!』 
「マリーナ??」 
 電話の向こうから、彼女のとがった声が飛びだしてきた。 
『え!? なんだパステル、そこにいるの!? ちょっと代わりなさいよ、トラップ!』 
 憮然とした顔のトラップから携帯電話を渡される。 
 電話に出ると、マリーナはわたしのことをすごく心配していたこと、トラップにわたしを探させていたこと等を話してくれた。 
 わたしも自分の状況(不覚にもホテルの中で迷ってしまったことなど)を説明して、一生懸命ごめんなさいを言った。 
 その間、トラップは仏頂面で、わたしがあげたジュースをズズズ〜と吸っていた。 
『探しに出てからずいぶん経つのに、ずーっと音沙汰無しだったのよ。ねぇ、大丈夫? そこのバカに変なことされてない??』 
「……さっ、されてないよ?」 
『ふうん…。まあ、いいわ。そろそろ見回りの先生が来るから、早く戻ってきてね。トラップに案内させて』 
「トラップに?」 
『だってあなた、ひとりじゃ帰れないんでしょう?』 
「で、でも! まずいよ。女子部屋のほうまでトラップが行くのは…」 
 だって、なんたって修学旅行。 
 男子と女子の間にまかり間違っても何事も起こらないよう、先生たちも厳しくチェックしているのだ。もし見つかったら…… 
 それなのに。マリーナはわたしの心配をカラカラと笑いとばした。 
『だいじょーぶ。そういうことは上手くやれるから、そいつ。そういうことばっかり、ね』 
 トラップのこめかみにピキッと青筋がたった気がした。 
 気がつかないふりをして早口でもう二言三言しゃべり、ようやく電話は切れた。 

 ツー、ツー、ツー、……。 





 ――はああぁぁぁあぁぁ〜〜〜…………… 





 あー、すっごく疲れた。 
 なんか今、ひさしぶりに呼吸した気がする。 
 もっと吸っとこ。 
 すぅー… 
 はぁあー……… 
 っはは。疲れた。 
 ほんっと。 
「帰ろ、トラップ」 
 何気なく声をかけてから、「やばい」と思った。 
 …だって。 
 機嫌、悪くなっちゃってる、かも? 
 だけどわたしの不安をよそに 
「ちげーだろ」 
「え?」 
「帰ろ、じゃなくて。帰りたいので連れてってください、だろ?」 
 彼はニヤリと笑って見せて、わたしを引っ張り、歩きだした。 
 ……あれ? 
 まあ、いいけど。 

 部屋を出る。そろーっと。誰かに見つからないように。 
 ちなみにトラップが開けてしまった鍵をかけ直すことはできないので、放っておくことにした。 
 何か起こったとしても知らんぷりだ。 
 …大丈夫、かな……。 



 もっとも、そんなのを心配する気持ちのゆとりは無かったけれど。 

 繋いだ手が熱いのがトラップのせいなのか、わたしのせいなのか。わからなくて。








 トラップに引っ張られてわたしの部屋のそばまで来るのに、それほど時間はかからなかった。
「ほれ、あそこだ」
 わー。思ったより近かったんだなー。
 トラップはマリーナの言ったとおり、巡回の先生の目をくぐりぬけ、見事にここまで連れてきてくれた。
 彼はこれからまた見つからないように男子部屋のほうまで戻らなきゃいけないけど、心配いらなそうだ。

「じゃあ、あの、トラップ……」
 ありがとう。
 おやすみ。
 また明日ね。

 伝えるべきメッセージはある。
 でも、声が出てこない。

 ――本当に言いたいことは、チガウから。



 やっと確信できた。マリーナからの電話で。
 彼はわたしを探すために、走りまわってくれたんだ。きっと。
 ううん。きっとより、もっと絶対に近い。確信。だって。
 上下していた、あの、肩。

 このまま、別れていいの―――?

 そう思いながら、わたしはこのままで別れられることに安心もしてる。
 だって。
 このままで、十分。

 これ以上は、こわい。





 わたしがそんなふうにグズグズしていたら、
「なあ、パステル」
 妙に明るい調子で、意外なことを言われた。

「おまえ、財布持ってっか?」

「へ??」
 なんでそんな…確かポッケに入ってるけど……
「………………うっそ!」
 信じがたいことに。そこには、なんの感触も無かった。
 いや……正確にはポッケの底にヘアピンの感触だけはあったんだけど。それが今なんになるんだってばぁ!
 え? ど、どうして?
 あれ? どこやった? どこいった?
 バタバタと全身をたたいて探す。
 無い。
 っえぇぇぇ〜!?
「無くしちまったか」
 泣きそうになりながらコクコクうなずいて、それでもまだ体のあちこちをたたいてみる。
 うう…
「無くなったら困るよなぁ?」
「もちろんっ」
 そりゃ困るよ! だって明日もまだ修学旅行はあるのに、お金なかったら……

 ――ん?

 なんか、嫌な予感してきた。
 そういえばこの人、なぜわたしが財布を持ってることまで知って…?



「ひょっとしたら、あの部屋に落としてきたのかもしれねぇーなあ」



 ……………まさか?



「しゃーねえから、探すの付き合ってやるよ」



 ま、さ、か………………………!?



「んじゃ十二時ごろ迎えにきてやっから。部屋から出てこいよ」



 ま   さ   か



「いや、え、でも」
「マリーナとかには上手く言って出てこいよ。なんか言い訳できんだろ」
「え、でも」
「寝るんじゃねーぞ」
「でも」
「そいじゃーパステルちゃん。まったな〜」
 くるり。
 両肩に手を置かれ方向転換させられ、わたしの体は部屋のほうへ押し出された。

 けど、その寸前。





「……来いよな」





 ささやかれた言葉が、まっすぐで。
 少しだけ、不安そうにも聞こえて。

 どうしよう。
 これは明らかに彼の罠なのに、はめられているのに。
 …罠にかかりにいってしまいそうな自分がいて。

 胸の鼓動が止まらなくて。



 困った。
 逃げなきゃ。
 だって行ったら。

 でも――
 彼はありのままの彼を見せて、ぶつけようとしてくれてる。
 わたしは…



 わたし、も。









 『覚悟』は、ここで。









 だから



「…十二時、だね」



 それだけをなんとか口にして、彼に背を向けたまま部屋に入った。
 リタやマリーナにワッと迎えられて、叱られて、軽く問いつめられて。
 それからいつものようなおしゃべりや遊びを始めた。

 でも、頭の中にあるのは唯ひとつのことだった。








 時計が十二時をさすのは……もうすぐ、だ。










――――――――――――

 パレアナ様にまたまた素敵なものをいただいてしまいましたっ!!(喜)
 前回の学園版の続き。修学旅行編です!
 「修学旅行も書いてほしいです♪」ってなお願いに、もう期待以上にこたえていただけて…ホントにホントに感謝です!
 トラパス万歳! 学園版万歳!! パレアナさん万歳!!!

 この後の展開も気になるところですが…頭の中でしっかり妄想させていただきます♪
 ありがとうございました〜v











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